NO.16(12/18)
さて、ようやく夜のフェリーボートでレイテ入りをした7人ですが、ここでジーンの親戚の女の子と
別れました。両親の家にこれから行くそうです。あまり深い事情を聞かないまま、「バイ、バイ!」と別れました。今の時期、だれもが被災で傷ついているので、なぜジーンが彼女をセブからレイテに連れ帰ることになったのか、あまり立ち入らないことにしました。たぶん自力では船の切符が買えず、日本人のわたしがフェリーに乗る時に同乗したかったのでしょう。助け合い社会のいいところで、余裕のあるひとが、余裕のないひとの面倒をみます。
さて、残った6人(ティム君一家4人、阿部さん、わたし)も、へたり込んではいられません。今夜の宿探しをしなければなりません。手分けして2、3のホテルに当たりましたが、今はどこも海外メディアや企業関係者で満杯。
どうしようと困っている時、阿部さんが目の前の古いビルの一室から灯のに気がつきました。そのビルは、ホテル・ドン・フェリペの旧館で、老朽化しているけれど取り壊さず、ふだんは従業員が使ったり、船のチケットが買えなかった旅行者などが泊まったりしている建物です。
わたしは阿部さんを誘い、ホテルの正面ロビーに行ってみました。中に入って行くと、フロントの顔なじみの係員がいて、
「タケミさ~ん、いつ来たのですか~?」
と笑顔で迎えてくれました。
なぁんだ、ドン・フェリペは営業していないと聞いていたので、別のところを探していたのに・・。
「旧館でも、ロビーの片隅でも、どこでもいいから泊めてほしい」と頼むと、新館も営業しているのは3階と4階だけ。エレベーターは止まっているし、レストランも休業。ほんとうは休業して高波で壊れた1階と2階部分を早急に修理したいのだが、市当局から、海外からのメディアやボランティアの受け入れのために営業を要請され、やむなく営業しているとのこと。ふりの客はお断りだけれど、なにせわたしは20年近く日本から通ってきている「お得意さん」なので、ホテル側も特別の配慮をしてくれたようです。
「午後空く部屋があるので、旧館でよければ、とっておきますよ」
やれ、やれ、これで今晩の宿にありつけることに。
朝食は、バスターミナルの2階で。ほとんどの客が、一目で海外メディアとわかる人たち。隣りのテーブルにはマニラからきたテレビ・クルーが、今日これからの予定などを話しながら、朝食をとっています。キッチン脇には、うなりをあげている真新しい大型発電機が。ここ、西海岸随一の港町オルモックでは、発電機を買う資金のあるものから、自前での復興が始まっています。
いよいよぎゅうずめのバスでリボンガオへ向かいます。
オルモック市内を抜けて、バスはレイテ戦時代に「オルモック回廊」と呼ばれた2号国道を揺れながら走ります。両脇には、例年ならそろそろ収穫時期を迎えて大きく成長したサトウキビの列が続くのですが、今年は台風のせいでどの畑もぺっしゃんこ。遠く、はるかな山の麓まで見通せます。
バレンシア地区にさしかかりました。この地区は大きなアカシヤなどの巨木が道路両側からアーチのように枝を広げ、通るたびに巨木を仰ぎ見るのが楽しみだったのですが、台風で残らず倒れてしまったらしく、あっけないほど殺風景に。そういえば、この「オルモック回廊」は、69年前の1944年の今頃は、東海岸から敗走してきた第十六師団、11月にオルモックから上陸した第一師団など、おおぜいの日本軍兵士が重い足を引きづりながら、この道を通った筈です。当時の下級兵士は馬にも自転車にも乗れず、ひたすら歩くしかなく、炎天下、舗装されていない土埃の道を米軍のはげしい空爆や艦砲射撃にさらされながら通ったと思われます。この頃、日本軍はまだ5、6万人はこのレイテ島にいたと思われますが、はたしてその中の何人が日本に帰り着いたでしょうか。損耗率98パーセントといわれるレイテ戦。ほとんどが無駄死にでした。
そんな中でも哀れなのは負傷兵たちです。多くの負傷兵が田入れるからはずされ、ここバレンシアで置き去りにされました。巨木の木陰に、名ばかりの野戦病院があったからです。大きく枝を広げて傷ついた兵士たちを見守った巨木も、今回の台風ですっかり台無しになってしまいました。
レイテ戦は、1944年10月20日にマッカーサーが上陸してから、わずか2ヵ月間で数万人の日本兵が戦傷死、あるいは餓死するといった消耗戦でしたが、米軍にとっては、日本本土をめざす通過の戦争だったようです。12月に入ると、米軍勝利を確信したマッカーサーは、レイテ戦を12月25日のクリスマスまでに終決すると宣言しました。そしてその宣言通り、日本兵はゲリラに取り押さえられて米軍に引き渡されたり、自爆死したりして、日本軍の終焉地といわれたブカブカ山周辺に残留した兵士は約1万人へと激減していました。
さて、現実に戻ります。バスは「オルモック回廊」をひたすら走ります。やがて、右前方に、マリトボク地熱発電所の煙が見え始めました。いつもは3本煙が上がるのが見えるのに、きょうは1本しかあがっていません。この台風でどこか破損はなかったのでしょうか。9月にトンゴナン地熱発電所の敷地内で見た、発電にともなうドス青い残留排水はどうなったか、とても気がかりです。滞在中、どういう方法でか、地熱発電所についての情報を入手したいものです。
やがてバスはリボンガオの三叉路に。混んだバスの乗客をかき分けて降り立つと、目の前がバァーと大きく開け、真ん前をまっすぐにヤマシタ・ラインが延びています。レイテ戦では、米軍によって、東海岸・西海岸から追い上げられた残留日本兵たちは、ここで北上し、最終的な集合地、でも結局は終焉の地となったブカブカ山へと向かいます。もちろん今のように舗装された道ではなかったけれど、道路の両脇には水田が広がっていたと『レイテ戦記』に書かれていますが、その水田も、今回の台風で壊滅的な被害を受けました。
リボンガオ三叉路からハバルハバル(乗合いオートバイ)に乗換え、いよいよ水牛家族の農園前に着きました。そして、そこに見たものは・・・まるで大きな草刈り機でエイッ!とばかりに切り払われてしまったようなだだっ広い野っぱらと、疲れ切った表情で、灼熱の太陽の下にたたずむご近所さんたちの姿でした。(続く)
リボンガオの交差点に立って、ブカブカ山方面をのぞむ。バスやオートバイ待ちの人たちに日陰を提供してい た売店や交通標識も、すべて強風で吹き飛ばされてしまった。
台風から3週間たったが、地元の自治体からの公的な支援は米2キロと缶詰3個、それに米軍払い下げの雨除けシートのみ。モンスターのような台風からがんばって生き延びたのだから、ここでへたばるわけにはいかないと、人びとは瓦礫の中から使える板やトタンを拾い集め、手製の小屋を建てて細々と暮らしを再スタートさせていた。
ティム君一家の家があった丘から農園奥のマンゴー林を望むと、すべてのマンゴーの木が同じ方向へ横倒しになっている。夢いっぱいにスタートした「100本のマンゴーの木プロジェクト」。なかなか実がつかないので、再生に向けたプロジェクトが動き出したばかりだったのに・・。水牛家族は、今、大きな試練の前に立たされている。
ジャイールも、リボンガオに帰り着いて友だちの顔を見たとたん、セブで新調したランドセルを背負ったまま、遊び始めた。台風によるトラウマの克服も、仲間がいて、それを見守る暖かいおとなたちの目があってこそ可能だ。子どもたちの未来をしぼませるわけにいかない。
瓦礫の中を歩いていたら、「ニヤァ~」という鳴き声が。見ると、ティム君のゴム草履と同じサイズほどの子猫が。風速90メートルのヨランダも、この小さな命を吹き飛ばすことはできなかった。ゆっくりでいい、生き残ったものたちが、勇気を持って新たな1歩を踏み出すのだ。